「何のために」「誰のために」 何度も問われたことが、
今もいきています。
大震災を機に暮らし方を考えた少年期。
田舎暮らしへの憧れを事業に。
兵庫県出身の私は、小さい頃から外遊びが好きで、自然豊かなところで暮らしたいなとぼんやりと考えていました。その憧れが強まったのは、小学5年生の時に阪神淡路大震災を経験したことがきっかけです。水も食べ物も自分たちで手に入れられず配給に頼り、避難先では普段まったく関係性のない地域の住民たちが苛立ち合っている、そんな3日間を過ごしたことで、都市での暮らしに怖さを感じました。「何があっても生きていける力を身につけたい」と考え、将来は田舎に住もうと思うように。
郡上へ移住を決めたのは、大学時代に自然体験サークルに参加したことがきっかけです。美しい山や川には幼い頃に図鑑で見た生き物が生息し、田舎で暮らすおじいさんは何でもでき、おばあさんは何でも知っている…。私の田舎暮らしの憧れがそのまま風景になったような地を訪れ、「ここで生きていきたい!」と、それはもう運命の出逢いのようでしたね。即決でした。
メンターから厳しい問いに
経営者としての自覚が欠けていたことを痛感。
郡上への移住を決めた私は、かつて民宿だった空き家を改装し、「NPO法人こうじびら山の家」を設立。子どもたちの自然体験を目的として立ち上げたものの、経営についてまったくわからなかったので「東海若手起業塾」にエントリーしました。ところが、自然体験施設ということ以外、何も考えていなかった私は「何のためにやるのか」と厳しい口調で聞かれ、何も答えられずに頭が真っ白に…。当時の私は、大学卒業したばかりで憧れの田舎暮らしを実現させ、自分の手でNPO法人を立ち上げたことで満足し、自信過剰になっていました。そんな私に「団体を作っただけでは何もできないぞ」と真っ向から意見され、自分は自分のことだけしか考えていなかった…と、経営者としての自覚に欠けていたことを痛感させられました。それからは素直な自分に立ち返り、自分の考えを正直に発言することを心がけました。すると、あらゆる角度からアドバイスがいただけ、この先に上るべき階段を一段一段、具体的に示してもらえたので、考え方の選択肢が大きく広がりました。
時や環境と共にミッションも変化する。
そんな時も、考え方の指針は
「何のために」「誰のために」。
起業塾で「何のために」「誰のために」と何度も問われたことは、今でも私の考え方の指針になっています。起業塾で学んでいた当時、郡上の里山再生をミッションのひとつとしていました。豊かな自然と、人や生き物が共生する時代を復活させようと思っていたのです。しかし、10年間郡上に住み、地元の人たちと交流を深めるうちに、私がイメージしていた「共生」が実在した時代はなかったことを知りました。いつの時代も、田舎では人が生きていくことに必死で、人に良いことをすれば、自然が崩れる…の繰り返しだったと言うのです。私は田舎暮らしへの憧れをビジョンとして描いていただけで、郡上の人が求める「共生」はそれではなかったことに気づき、「何のために」「誰のために」を再び考え直しました。そこで辿り着いたのは「人と人の共生」でした。10年前、私がこの地に移り住んだ時は2000人だった人口は、今、1700人に減少しています。その一方で20歳の若い夫婦など移住者は増えています。どんな土地でも、人がいれば絶えることはありません。今は、郡上が好きだと言ってくれる人を地域に繋げるのが私のミッションだと考え、地元で立ち上がったいくつかのNPO法人や消防団の仕事も請け負い、地元との繋がりを深めて、共にこの地の暮らしを守っていこうと思っています。
Message
本気のサポート、 本気の仲間がいる貴重な場所。
起業塾では、「自分がやりたいからやる」から「地域の役に立っているのか」に考え方を広げることができたのが良かったです。さまざまなジャンルのプロフェッショナルが集い、自分の事業を本気で考え、必死に付き合ってくれる場は他にはないと思います。当時には理解できなかった言葉も、今では納得することが多く、学んだノウハウはその後の経営に必ず繋がると言い切れます。また参加者の業種も幅広く、たくさんの刺激を受ける場でした。また、課題も多かったので、言われたことをすぐにやる習慣ができました(笑)。